就活より終活したい

4/19

就活に関するイベントの参加も3回目になった。ここで学んだことといえば、就活なんてゴミで、ガクチカなんてあるわけ無いだろうということである。

これに似た感覚を以前受けたことを思い出した。そう、高校の学校説明会である。

なぜ、大学の説明会ではないの?という質問には黙秘させていただきたい。故に、このような将来に関する思考を強制的に行わさせられる環境に身を置かれるのが久しぶりであった。

講中 教壇者が放つ言葉が、マシンガンのように飛び、それが足に刺さり、倒れ、前を向くことができなくなった感覚を味わった。

というか、今までの人生で何も成せず、敷かれたレール(この表現見たことありすぎて他のものにしたいけど、思いつかない)を歩んできた私。学ぶ気がなく何もできないが「大学生」という立場を親の金を浪費させて居座っている。これが現在の一時的な終着駅である。しかしここにはあと2年しか停車ができない。それは分かっている、分かっているが、、、現状から先に進む気が起きない。

なんだよガクチカって。死語になれ。

 

でも今日は楽しかった。

いつの間にかスマホで起動しているTwitterを見ていると、ヨルシカ垢の投稿で後書きのコラムが追加されているという情報を目にした。コラムの通知は来ないらしいので、珍しくTwitterが役に立った出来事であった。本当は一単語ずつ、いや一文ずつ引用してそれに対しての感想を事細かく書きたいが、それは駄目だから、、、 悲しいね。

まぁともかくヨルシカ垢の人(数人しか見ていない)は落胆やショックという投稿がなされていた。俺は○○○○○と思った。

中には次の事柄に該当しない人がいるのも知っている。だが言わせてほしい。

「どうせ、その垢の存在意義はヨルシカ好きという要素を餌に他人からの共感を得たい自己承認欲求から成り立っているんだろ?」*1

 

4/21

文章を読み直している。

まぁでも他人と関係を築くには、何かしらの共通点があったほうがいいだろうし。これは*1、ブーメラン発言でもある。

俺の中での願望だが、n-bunaとsuisは○○人間であってほしい。なんでかは言語化できない。ヨルシカ盲目信者なので活動とかもろもろ全肯定であるから、憂いとか嫉妬からくるものではないし。なんなんだろうね。

なんかもうちょっと書きたいことがあった気がしたが、急に手が止まってしまったので、さようなら。

結局人生は人間関係ゲーであり、相対評価にやって成り立っているのだ。

以前、自己満足を自給自足できる人間が最強であるという結論を出したが、やはりこれは前世から相当の善人でない限り無理な事象であると痛感する。

また、井の中の蛙は愚かな存在という認識だったが、実は最も幸せな状態であると思い始めた。

才能って何なん?

いつ書いたのかすら覚えてないクソ記事

 よく才能がある人の人生を振り返る系統の番組ってあるじゃないですか。大抵(違うこともあるとは分かってます)学生時代は不登校だったとか、生まれた環境がよくなかったとか。だけども、自分も道を信じて進んでここまで来ましたみたいなシンデレラストーリの流れで、すごーいって感じで終わる流れ。これが気に食わない。

 ものすごく不謹慎なことを言うと、自分もそのような同じ環境で育てばすごい才能を見つけられたのでは?と考えてしまう。望んで恵まれた環境に生まれたわけじゃないとか(殴ってもいいです)。

 何か逸脱した子として生まれれば周りから変人かまたは天才扱いされていたのかもしれないと。こんな考えは愚かでしかないし、塵なのは分かってる。現実で発言したこともないけれども、こういう番組とか才能の話をするときに毎回頭をよぎってる。でも仮に、その人の環境が違ってもその人の行動によって辿り着いたっていうことは不変なわけで、俺と同じ環境で育ったとしても同じところに辿り着くでしょう。だから、自分で行動せずに、周りの環境さえ違ければと考えてる時点で、負け犬でしかない。

 それに加えて、周りと異なっていることを自身の要素として才能があると言いふらしているやつも嫌い。これもものすごく不謹慎だが、すぐ病んだとかADHDとか勝手に判定してそれを自身の属性に組み込むやつの思考回路が理解できない。実際にこれらの人には申し訳ないが、大抵の人はこれらに該当するわけがなくて、それで私、僕は周りと違うんだ。だから才能があるんだ。みたいなやつは、、、言うまでもない。まぁでも実際そういうことを自分自身で消化して行動を起こせるということ自体はものすごいことなのかもしれない。 

 文章ではこんなことを書ける俺だが、実際には何もしない、人生を浪費することが趣味である俺のほうが、終わっているし嫌われるにふさわしい人間の形をした何かなのかもしれない。

 

見知らぬ地へどうか飛ばしてくれ

高校の担任がホームルームなどで話す話の雛形として、「〇〇という人が言った〇〇という言葉にあるように」がある。僕はその先生のことは嫌いではないし、むしろ少し好きだった。若い先生で歳が近かったから勝手に親近感を抱いていたせいかもしれないとか今になって考える。

 

そしてこの引用構文を聞くうちに、僕はこいつには自分の言語がないのか?と思うようになった。持論だが、言語いや言葉は辞書のように白紙の上に黒で書かれているいわば中立といえばいいのだろうか。何の背景も持たずバイアスもかかっていない綺麗なものという認識をしている。しかし、そこに対して何らかしらの地位を持った人間が言葉を放つことで、その言葉に背景や色が追加されてもそれを受け取る人間はその言葉の持つ意味以上もしくはそれを凌駕する事柄と認識すると思う。だからいつかは自分も独自の言葉のような言葉を自分で操る側になりたいと思うのと同時に、先生のようにはなりたくないと思った。

 

そして高校を卒業して、なんとなく大学に進学した。最近は学校に行く気も起きず、起きているのに7時間布団の中で過ごしサボるという他人に叱咤されても文句を垂れることはできない人間である。数日はn-bunaの曲を適当に漁り過ごしている。ここで思った。結局自分も歌詞を都合よく解釈し、気持ちよくなり生きているだけだと。先生と同じであると。バイトもしない勉強もしない。何もしないで、何をすればいいんだ。

カラオケ

10/18は花譜が5周年、神椿が4周年だった。

だから、なんか記事を書こうと後回しにしたら、19日になっていた。

 

カラオケ友達?とまたカラオケに行くかみたいな話になったのだが、私は歌が上手くない自分が気に食わないから行きたくないと言ったら、そいつは点数が高いのに何を言ってんの?と怒られた。

ずっと言ってるが、点数が高いならば歌が上手いわけではない。そしたらボカロが一番歌が上手いことになるじゃん?(ボカロを嫌っているわけではない)その人の声質、発音、抑揚とかで歌が上手いかどうかって決まるのになんでなんだろうね。そいつの方が明らかに歌が上手いのに。

 

 

 

お久しぶりです。

いつもブログを書くときに冒頭をどうしようかと悩みはするものの変えることなく、この言葉を選んでしまいます。

適当に日々を浪費していたら夏が終わり、後期が始まっていました。今季はゼミ配属前の学期ということもあるのか、専門性が前より高くなって面白くなってきたなと思う半分、難しくなり課題が増えたことを億劫に感じています。

 

今回は何をテーマに書こうと考えていましたが、人間関係について書こうと思います。

 

その前に最近の近況報告をさせてください。夏休みは例年通り引きこもっていたのですが、ちょくちょくアウトドア的に活動できたなと思っています。

始まりはチャリです。ほぼ深夜テンション?いやふっかる?で行きました。体力はないため完走降るのが辛かったけど、楽しかったのと達成感を得られるので今後もやっていきたいです。絶対やる。

その後は大学のいつメンとの旅行に行きました。1泊2日でしたが、バイキングやプールで楽しみました。好き嫌いが多く少食な私ですが、バイキングの好きなものを好きなだけ取れるという状況は久しぶりだったなで楽しくとても美味しかったです。

そしてTGSに初めて行きました。小学生からFPSにハマり抜け出せなくなっていましたが、ゲームって幅広いなと再確認でき、新たなゲームを始めてみようかなと思いました。ゲーマーと言ってもさまざま年齢層の人やコスプレイヤーなど世の中にはいろいろな人がいるなぁと東京に初めて来たときと同じ感想が出ました。そして最後に小中学時代の友人と会いご飯を食べました。懐かしい雰囲気と居心地の良い空気匂い(いまだに味覚障害)がしました。

近況報告は以上です。

 

人間関係について書こうと思って途中まで書いてきたのだが、ただの愚痴できしょいなってなったのでやめる。そこから考えたのだが、利害の一致を求めてしまう相手は果たして友達なのだろうかという疑問だけが残った。

音楽の宗教性

気づいてしまった。ヨルシカに嫌いな曲がないということに。これは良いことではない。どんなアーティストに対しても好きな曲と嫌いな曲は必ずできる。なのに、こういったことが起きる。その理由は単純。ヨルシカが書いた曲という視点で見ているから。勝手にヨルシカ教に入信している。結局そういうことをしてしまう。最初は本当に曲が好きだったに違いないのに。これはもうごみでしかない。でもヨルシカを嫌いっている判定は絶対に下せない。だって、もしこの判定を下した時点で、今までのすべてが無駄になるから。ヨルシカ教の踏み絵をさせられる気分。

あぁ、気づきたくなかった。無知は恥という言葉があるが、知らぬが仏なんだよ。まぁだからって感じで終わるのが俺。結局こうなっても何も行動しないから。案外俺は幸せ者なのかもしれないな。嫌なことは寝ればすぐ忘れられるし。次の日にはこの思考も忘れてる。

 

最近流行っているのもこれなんじゃないか。曲単体で評価されているわけじゃない。今までの功績、地位から判断しているに過ぎない。違うのかもしれない。でも音楽を素の状態で楽しむなら、作詞作曲歌唱者の名前を見てはならないし、再生回数、高評価、コメントは見てはならない。これはできない。何かしらラベリングしなきゃ散らかった状態でカオス。だからラベリングは必須。

 

人生全部フィクション。

皺の増えた顔も全部フィクション。

蒼い目も叫ぶたび枯れる喉も何もかも全部フィクション。

人生はコメディ。